今を大切に生きる

心豊かに生きていきたい

責任ない

 「責任ない」。ここ半年くらいの間に高齢の男性と本音で話しているときによく聞く言葉。数年前まではその人の口から聞いたことがない言葉。

 

 その男性はその人にしかできないようなことは責任を持って遂行しています。酸いも甘いも知る、社会人としての経験値も豊かです。また、相手の力量を見て、関与の仕方も変えているように見えます。現場からものが見れる人です。

 

 「責任ない」は、たいてい疑問に思ったり、どうやってその結論にたどり着いたのかわからなかったことに対してよく出てきます。

 

 そこに関与している人たちの話も聞き合わせて総合すると、(本人ははっきりいいませんが)、そのプロジェクトのリーダーと高齢の男性の物の見方が真逆だそう。その男性はいろいろな意見を言い続けたのですが、通らなかったようです。

 

 この場合、そのプロジェクトの責任を取るのは、リーダーの役割にある人。高齢の男性ではない。それを「責任ない」と言っていたのでしょう。

 

 高齢男性の気持ちを推し量ると、なかなかつらかったと思います。真逆の見方を正としてことが進むのはつらかっただろうと思います。そのプロジェクトを何とかしようと思っていれば。

 

 その男性と話していると、熱い思いは感じない。かといってマイナスでもない。普通にフラットに見て、割り切っているのだと思う。

 

 長く働いていると、「割り切る」ことも身についていく。いろいろな意味でこだわりだったり、信念、執着だったりを手放すことで見方が変わる。とはいえ、高齢の男性はその仕事に思い入れがあった。現状から、自分の考えを発言するところを自分の存在意義としていたのかもしれない。

 

 「責任ない」というときに見せる、ふっきったような、冷たいような、怒っているような表情は葛藤の表情なのかもしれない。

 

 全員が全員納得する結論を得ることは難しいだろうけれど、こういう思いの人が出てしまうのは、プロジェクトのリーダーのチームビルディングに難があるのかもしれない。そうであったとしても、プロジェクトの責任はそのリーダーが負う。私も思う、高齢男性に「責任ない」

 

傍観者

 例えば、目標を100に定めたとします。目標100に対して、結果が50の達成度だった場合この目標は達成されたのでしょうか。

 

 私はそれは達成されていない。もしくは100%に対して半分の達成、今後残りは半分をどうするかもしくは当初の目標設定が高すぎた。と言う話だと私は思います。

 

 どうやって見ても、私は目標が達成されていないと思うのです。

 

 参画者は結果が出るまで100%に近いところまで達成できると見込んでいて、結果が固まると最低目標はクリアしたと言い出しました。実績は半分以下なのに。

 

 普通に考えれば、私が聞いていた目標は達成できていないけど、言葉の通り最低限の目標があって、それを達成した。もしくは、結果ありきで最低目標はクリアしたことになったのか。参画者の中で曖昧なまま進んでいたのか。

 

 目標を達成できなかったのなら、なぜ達成できなかったのか。そもそも目標に対する設定が間違っていたのか、進め方が間違っていたのか、それを見極めない限り、同じことが繰り返されます。

 

 本当に理解できませんでしたが、何も言わずに観察をしています。その事象を遠巻きに見ています。

 

 参画者ではないからテレビドラマを見るように傍観者でいます。関係ない私が口を挟んでもおせっかいに過ぎません。良くわからない、理解できないことに対して自分の受け止め方、対応を学ぶ機会をいただいているのです。

 

 関係している人たちには、苦労して取り組んでいました。参画者が全力を尽くした結果は尊い。目標に対してではなく、成果があったことは事実なのだから、それはたたえるものだと思う。ですが、第三者(傍観者)がそれをたたえることも、批判することも、口を挟むことも違う気がする。

 

 参画者にしかわからないこと、傍観者には見えないことがたくさんある。傍観者のひとりである私の考えはひとつの見方にすぎない。正しいとも限らない中、口を挟むのではなく、傍観できるようになったことは私の成長だ。

 

 私が物事への対処の仕方が変わったということ。このまま自分を大切にすることを第一にします。

不思議な夢②

不思議な夢①の続きです。

pleasantbreeze.hatenablog.com

 

「こちらにいらっしゃい」

 

 姿が見えない人からこころに届く声に導かれ、私たち3人は窓から日が差す部屋に通されました。私たち3人が部屋に入ると扉が閉まり、外を見ると親族のビルに並ぶ人が溢れています。

 

 見つからなくてよかったと安心していると私は姿が見えない人に「ストーカーに追いかけられている。助けてほしい」と言います。姿が見えない人は「整形して顔を変えた方がいい。だけどあまり変わらないかもしれない。ヒコポンドリーだから」と言われました。私は、整形するのにあまり変わらないかもしれないってなんだろう。と思っていると、賑やかな声が聞こえてきました。

 

 螺旋階段の下を覗くと私たちが入った秘密の入り口から私の知人が数人入ってきて談笑しています。このままでは見つかってしまうと思った瞬間に、見えない姿の人が両頬に3本ずつ、狐の髭のようにメスを入れました。不思議と痛くなく、それで手術は終わりです。

 

 私たち3人は何食わぬ顔で螺旋階段を降りていくと私の知人と思われる人たちが私に気がつくこともありません。

 

 そのままそのビルを後にし、顔は変わったけれど、匂いで気がつかれるかもしれない。鬼滅の刃の世界のように、周りの気配に注意しながら私の実家の方に移動していきます。

 

 その日の夜、私の実家のブレーカーが降りてしまいました。なぜか実家周辺エリア全体がブラックアウト、停電してしまいました。その停電を解消するには、私が逃げている人が住むエリアにある2階建てアパートの壁にあるブレーカーを上げる必要があります。

 

 整形をした私は、危険がありましたが、細心の注意を払いアパートに向かいます。アパートにつき、その階段からブレーカーに手を差し掛けたところで、私が逃げている人が二階の階段から降りてきて見つかってしまいました。

 

 わたしは、アパートの屋根に飛び上がり、屋根づてに逃げましたが、捕まってしまいそうなところで目が覚めました。

 

 その夢は全てカラー、明るさも暗さも逃げて走っている時の風も、声や音も感じる夢でした。

 

 朝起きて、しばらくぼうっとしながら何なんだろう。この夢は、そういえば「ヒコポンドリー」って聞いたことがある気がする。

 

 調べてみると、ヒコポンドリーは心気神経症と言い、実際には病気ではないのに、ささいなことで身体の不調を感じ、重要な病気ではないかと怯える状態とのことでした。

 

 もしかしてこの夢は私が自分の苦手な人に対して感じていることに対して、気づきを促す夢かもしれない。

 おそらく私が苦手だと思う人は多少なりとも私を嫌っていると思うけれど、私がその状況を必要以上に深刻に考えて、悪いと思い込んでいることと同じ。些細なことを重要に感じ怯えているのではないかと感じました。

 

 見えない人が言う「整形して顔を変えた方がいい。だけどあまり変わらないかもしれない。ヒコポンドリーだから」と言うのは、私が苦手な人に対して抱いているこころの持ち方に対してかもしれない。

 

不思議な夢が教えてくれたこと。上手に生かしたい。


スポンサードリンク