仕事において、私が周りの人から感じる気づき、違和感、イラつきの数々。それは、私というフィルターを通して見える世界。自分の中にあるモノの見方、それがフィルターなのだと思う。
・〇〇しなければいけない。
・次の人が気持ち良く仕事ができるように整えるべき。
・物事を進めるには中身がわかる必要がある。(わからずにものをいうな)
・仕事の基礎ができて一人前、それができないと次のステップには上がれない。
・物事を全体で捉えられるようにならなければいけない。
・他人に頼るのではなく、自分で考えられるようにならなければいけない。
これらは私が今まで生きてきて、働いてきて、私が感じ取り身に着けたモノたち
なぜこのモノたちを身につけようとしてきたのか。その根源が、仕事ができるようになりたいという気持ちからだったら良かったのだと思う。私は自分が足りない、不完全だから、これらを身につけなければいけないと思い続けてきた。
何かが足りない、何かが不足しているという自己認識。それが私が周りを見るフィルターの正体。
フィルターを通すとこんなに努力しているのに、なぜこの人たちはこんななの?こんなこともできていないのに、なにをいっているの?という気持ちになる。ここでの問題は周りの人たちに問題があってもなくても、私というフィルターを通じて見える鏡でしかないこと。私が自分の不足感に固執してきたから見える違和感なのだと思う。
周りとの関係で〇〇しなければいけないをやっていたら、それができるようになっても、次から次へと新しい課題が出てくる。足りているか足りていないかを他人の評価や反応から、もっと頑張らなければいけないになる。
これらの自分に課したバーをクリアできれば周りは私を認めざるを得ないと信じていた。そのバーをクリアしても、私が欲しい形で認められることはなかった。それは、認める人たちの基準では、私が自分に課したバーができていようが否おうが、関係ない。認める人たちの基準は、私が持っていないもので構成されていたのだから。
目の前で繰り広げられる違和感、不条理なことたちは、私が自分を足りない、不足していると考えていること自体が誤っていること、そに固執している限り囚われが続く、離れなさいというサインだったのだと思う。
それがわかっても、長年で培った考え方や見方は自分に染みついている。
これからも、こうやって気づきがあるのだと思う。その気づきは「そっちじゃないよ」というサイン。自分が望む方向に行ったらきっと何も感じなくなる。それまではまた出てくるかもしれない。それでも、ここまで気づいたのだから大丈夫。もうもどらない。私は心地よく自分らしさを取り戻し、自分の人生を生きる。
良いこと3つも続けていきます。