昨日のはてなブログお題「思い切ってやめてみた事」に付随して感じたことを記載します。
もう一つ、これも親しい友人との間で「人に合わせることができなくなったこと」、「相手の期待(と自分が思っている、思い込んでいる)に副うことをやめたこと」で感じたことです。
友人は悩みぬいたうえ会社を辞めました。その会社を辞める前にとある資格試験に合格しました。その試験は友人がずっと前から「取得したい」と願っていたもの。念願がかなったのです。
その友人が会社を辞めてからしばらく経ちますがその後何も連絡をしてきません。
私は自分が心身のバランスを崩したことに関して「言いたくても言えないこと」や、「言いたくないこと」があります。また、親しい人でも「話せること」、「話せないこと」がありました。
それでも、自分の力になってくれた人、心配して心を寄せてくれた人には、自分の気持ちが追い付いたときに、状況の報告とお礼は伝えていました。
友人も心身のバランスを崩しているとき、相談してきて、いろいろ聞かれました。
友人はその後の経過は話してきませんでした。私は自分の経験から、自分からは連絡せずに見守る方法を取りました。この時は自分よりも友人を尊重する気持ちでした。
以前の自分であれば、彼女はその後どうしただろう、言いたくても話せないのかもしれない。こちらから連絡しようとしましたが、今は自分の意思で連絡しようという気持ちはありません。
なんでだろうと思うと、私の中に、心身のバランスを崩したときのことを聞かれ、負担だと思う気持ちがありました。そのうえでいろいろと答えたことに対して言われた何気ない一言や、状況を知らせるれんらくがなかったことを残念に思ったように感じました。
これは、負担だと思うことを相手のためにしたことと、相手に自分と同じような価値観を期待していたことから感じた気持ち思います。
また「同じ思いをするのかもしれない」、「自分が嫌な思いをするかもしれないことにわざわざ関わろうと思わない」という自分のこころの裏返しが友人になっているのだと思います。
そうやって考えると、自分も周りの価値観の違う人間から、その人の価値観と違う部分に違和感を持ってみられているのだと思います。それは、どちらが良い悪いではなくあたりまえのことなのでしょう。
それを自分が悪いや足りないと思い、人に合わせたり、相手の期待(と自分が思っている、思い込んでいる)に副おうとすれば疲れるのはあたりまえです。
相手の期待と自分が感じることが、実は思い込みが多くを占めているように感じ始めています。これは、相手から言われた時初めて相手の期待と認識する。それくらいの鈍感さを意識してもいいかとおもいました。