昨日の続きです。田宮陽子さんのブログを読み感じた事、自分が「誘わないで、近寄ってこないでビーム」を発していること、「運命の人はこころの鎧をはずしたときに訪れると言う記事を読みました。そこに書かれていることは、胸に痛い言葉がだくさんあった旨を記載しました。
私は、生きていく上で叶えていきたいこと。それは、ささやかな日常といわれる通問い幸せのように思います。例えば、大切な人と美味しいご飯を食べる。一緒に笑う。一緒に何かを考える。ともに歩む。ありのままの相手を受けとめる。そして自分のありのままを受け止めてもらう、そういう人と人同士で心を通わせて生きていきたい。それが私の本当に叶えたいことです。
それが今できているか。。。仕事人間だった私は、いろいろなつながりを断ってきてしまいました。正確に言えば、断つことを選択し、足りないと思っていた自分が足りないのではないということを示したくて、仕事を選んできました。
今思えば、自分がこころの鎧、うまく言えませんが、おそらく私は「私はダメなんじゃないか、足りないんじゃないか」「私はダメじゃない」という頑なな想いのはざまで、ダメじゃない自分を証明したい、一方で傷つかないように自分を守っていたように思います。そうこうしているうちに、だいぶ年齢を重ねてしまいました。
年齢を重ねたことを後悔してみ仕方がない。そして、年齢に縛られることもない。こころの鎧をかぶり続けていたら、いつまでたっても変われないでしょう。
私が叶えたいことを叶えることと、働いてお金を得る場をどうするか、心理学の学びをこの先の人生にどのように結びつけていくかこれは、すべて種類が別の問題です。
いつまでも働くことにばかりに意識を向けていたら、自分が本当に叶えたいことは叶えられない。これは、仕事中心人間から脱却しても、この先どうするかばかり考えていたらそちらに意識が向いてしまい、自分の本当に叶えたいことに意識がいかないと考えているからです。
もしかすると仕事のことは置いておいて、本当に叶えたいことと心理学のことに意識を向け続けていたら、そちらの方向にことが進む、そうなったときに初めて「働くことは生きていくためにお金を得ること」として位置付けられて、その範囲に心身の占める範囲としておさまるのかもしれません。
最近眠くて眠くて仕方がありませんでした。よく眠くて仕方がないときは、人生が変わる時、潜在意識とアクセスして、大きく人生が変わる時と言います。
田宮さんから頂いたキーワード、こころの鎧をテーマに、あまり考えずにキーボードを打っていることを思うと、これは、私hの今の重要な教えなのかもしれません。
やっと自分の本当の願いを叶える基盤がととのってきたと受け止めています。あまりに眠くて、だるくて心理学の勉強も手につきませんでした。今この気持ちを吐き出したら少し何かが変わり、前に進めるのかもしれません。
前に進みましょう。私さん。意識を自分が叶えたいことに向けましょう。心身のバランスを崩してから意識の向きを変えてここまできたのだから、自分が変われることも、意識の向きを変えると別の世界があることもすでに私は知っている。だから恐れることはない。前に進もう。
私は大丈夫。そう思える生き方を、私は大丈夫。そう思う元となる自己肯定感をはぐくもう。