日曜日14時から放送されている「ザ・ノンフィクション」今週の日曜日(2022年8月21日)に放送されたのは、
彼女が旅に出る理由 ~すれ違う母と娘の行方~
ミサト(28歳)と私は年齢も異なりますが、興味深く視聴しました。心豊かに生きたいという気持ちは一緒。魂を削ってまで働くのは嫌だという気持ちも同じです。今回もミサトに対して感じたことを書いていきます。
ミサトはなぜネギ農家をやめたのでしょうか。
まだミサトは自分がどう生きていきたいのか、どうしたいのかわからなかったのだと思う。
生きるためにはお金が必要で、お金を得るには働く必要がある。それがわかって、定住して働いてみたけれど、自分が思い描いていた何かと目の前の現実が異なっていたのかもしれません。
ミサトは、高齢の論客のような男性に、論破されます。「結局あなたは何がしたいの?」「今はあなたは一番底辺にいるんだから、そこから這い上がらなきゃ。上に行かなくちゃ」、ミサトが「みんなが集まれるお洒落なサウナをつくりたい」というと、「石に火をつければいいじゃない」等々のやりとりもありました。
論客のような高齢男性は、まくし立てていて、伝え方にやや難がありました。ただ、最後には「やりたいことをやりたいならやればいい。それだけだよ」と言っていました。
ミサトは「あそこまで行ってくれる人はいない。痛いところを突かれた」と感謝して受け止めていました。
とはいえ、ミサトは「自分を否定された、非難された」と感じたのかもしれません。それもあったかもしれません。ですが、論客のような高齢男性は、その人の価値観で「社会で生きること」を解いただけかもしれません。
これは、ネギ農家の論客の高齢男性だから起きたことではなく、価値観が異なる人たちが集まるのが社会。どこでも起きること。
ミサトはもうネギ農家に戻って働くことはないでしょう。遅かれ早かれはそうなっていたでしょう。
ネギ農家の人も論客の高齢男性も、自分が良かれと思う支援はできても、ミサトの生き方を決めることも、ミサトに生き方を押し付けることもできない。
私は論客の高齢男性は、やりたいことがあるなら、やれるように考えることで、やれないことはない。生きてくにはお金が必要で、ミサトには自分で生きる土台を作ってほしい。自分が生きることは自分に責任があるんだよと言いたかったのではないかと思います。
きっとミサトはこれからもトライアンドエラーで自分が生きたい道を見つけて行くのだと思う。それはミサトでないとできないこと。自分の人生見つけてほしいと思います。
次は、ミサトのこの番組と私を重ね合わせて感じたことを書きます。(④に続く)