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話せばわかるという思い込み


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 「話せばわかる」人もいる。しかし、大半は「話してもわからない。」中には、会話も噛み合わない人もいる。

 

 「話せばわかる」、「会話が成り立つ」ということはありがたいことだと思います。実態は、「話してもわからない」、「会話が噛み合わない」は大いにありうること。それは、良い悪いではなく、事実です。それに自分がどう向き合うかという話し。

 

 「話してもわからない」、「会話が噛み合わない」相手を自分の力で変えようと思っても難しい。育った環境も価値観も異なるのだから。併せる気持ちがない人に合わせるにはこちらが100%に近く合わせなければならなくなる。

 

 いくら仕事だ、チームワークだといっても、フェアじゃない。こうやって搾取されることはない。

 

 自分が信頼できなくなった人と、関係を再構築することもない。信頼できない自分の気持ちを優先し、その選択をしたことを自分で受け入れ、責任を持てばいいという話し。

 

 昨日まで書いていた「残念なこと」では、もう相手が理解する気がないと気が付いたこと、私がフォローし続けることもないと判断しました。

 

  しかし、そこから手を引いても、「仕事がうまく行くには私が合わせれば丸く収まるので、それを放棄することは、良くないのではないか。周りに迷惑がかかるのではないか」ということが引っかかっています。

 

 しかし、私が合わせなければならないという理屈はない。大切な自分をわざわざ搾取されることを容認することはないのです。できることをやってもダメだったのだし、私は手を差し伸べないことに納得してそうしたのだから、それを尊重する。我慢して、、何も言わない限り、この問題も顕在化もしません。

 

 振り返れば「私が頑張れば、我慢すれば丸く収まる。なのでそうするべきである」という根深い思い込みを持っていたのだと思う。大分抜けてきたと思っていたけれど、まだ、その思い込みは抜けていない。いいんだよ。もう耐えなくて。

 

 事務的なことも、わかるようにメモで残しても、見ない、確認しないのだから仕方ない。それは伝え方が悪い?わかるように良好なコミュニケーションを保てないことが悪い?上司はいさかいが起こると自分が困るからコミュニケーションをとってほしいと思うでしょう。しかし、見ない人を変えることはできません。信用できない人を信用するだの、やらない人のためにやれるようにお膳立てしようというのは何とも献身的な自分を削る仕事だった。

 

 相手は事実として仕事をしない。その理由はわからないし、その理由が何であれ、他人がフォローすることではない。その人が悪いわけではない。その人はそういう人というだけ。その人をフォローしないことも悪いことではない。それだけの話。


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