今年は頑張りすぎたことからたくさんの気づきを得ました。
ひとつは仕事。あんなに頑張って、歯を食いしばって努力をしてきたものに対して、現在は働くことは生きるために必要なお金を得る手段という気持ちの方が強くなりました。
それまでは、働くこと=仕事を通じて成長することや自分の力を試す場ととらえていました。そのときも頑張りすぎていたけれど、前向きで楽しい気持ちの方が強かった。それが、いつからか他人から承認されることや他人と比較することの意味合いが強くなっていきました。
私が勤めている会社の人事制度は、性別等に対する暗黙の運用ルールがあります。それでも私は頑張れば認められると考えていました。
人は本当に願ったことは叶う、叶わない願いは本心から願っているものではないと聞いたことがあります。
会社の中で私がほしい形で認められなかったとき、それが本当の願いではなかったのか、いやそんなことはない。そこから自分と向き合う苦しい日々が続きました。
その中で気づいたこと。
私は仕事しかない人間になってしまい、個・私を完全に見失っていました。
個・私を見失うほど、本当に仕事がそんなに好きだったのか。
好きな部分もあったと思います。しかし、途中からは他人から承認されることへの意識が強くなり無理をして頑張り続けてきたように感じました。
今は仕事はどちらかというと「やりたくないこと」のひとつです。自分でもこの変化はびっくりです。しかしこれが今の素の私です。
長く働いている中で、仕事をしたくないと感じることは節々にありました。しかし、今回は「やりたくないこと」のひとつと認めたことで、気持ちがすーっと軽くなりました。今までもきっと「やりたくないこと」のひとつだったのだと思います。
私は何がしたかったのか。
仕事を通じて自己実現だったり、居場所の確保、必要とされる人でありたかったのだと思います。そのために、苦手なことも、人が嫌がることも頑張ってやってきました。
どのような仕事も工夫してやれば、楽しさが見つかると言います。その言葉はその通りだと思います。しかし、そう言い聞かせて色々なことを我慢してやってきた部分もあったことに気がつきました。大変な方に、大変な方に進んでいっていました。
私自身が、ありのままの自分を認めることができていたら、居場所を仕事でないところに求めることができていたら、他人からではなく自分で自分を認めることができていたら。仕事というフィルターを通していました。
私の真の願いはありのままの自分を認めること、居場所を得ること、自分を認めることだったのだと思います。
自分のことを少しずつでも認めることができるようになったことで、働くことへの思いが変わったのだと思います。
仕事を通じて自己実現をしなくても、個・私でやればいい。今勤めている会社もいつかは必ず退職する。それ以外の個・私の居場所を大切にすればいい、仕事も苦手なことややりたくないことを無理してやるのではなく、できることをやればいい。
自分と向き合う苦しい時間もこれから自分らしく生きていくために立ち止まる必要な時間なのだと思います。そして、私が本当に欲しいものは仕事を頑張ることで得られるものではないと気づく機会になったのだと感じます。
(つづく)