大学の授業で学んだリーダシップについて、学びと気づきを書いています。
3回目では、健康社会学者河合薫さんの記事にて、瀕死の部署を再生させた人が左遷されたこと(仕事ができる人=出世する人ではない)や、昇格という点で評価が高い人は、無責任だったり嘘をつける人であり、マイナス要因となるのは「責任感や几帳面さ」という話しが腑に落ちた話を記載しました。
以前は「そんなのおかしい」と思って受け止められなかったと思います。今は「変だけど、そうだなー」と思います。
上に立つ人は会社という媒体を通じて自分の利得を優先する。だから、社会や会社や組織のためにと上の意向に背いてやり遂げる能力、実力を持つ人は左遷されてしまう。責任感を持ち几帳面に仕事を進める人は、機能として必要だからその役割にとどめる。忠誠心、明るさというのは、自分が快適でいるには必要。そんな構図なのかも。当たらずとも遠からずのような気もしてきました。
このような構図が生まれることは「人」という存在の愚かさなのかもしれません。また、これが世の中の縮図なのかもしれません。
本来人には、もっとその人自身が持つ良さや多様性を活かすことが出来る。集まる人の和を大切にしながら、尊重する。そういう能力が備わっていると思います。
上記のようなことを唱え、本当にその温度、力がみなぎっている会社は外から見ても元気がいい、プラスの印象があると思います。一方、上記のようなことを唱えていても、実態が伴っていない会社は、なんとなくそういうものも伝わってくるような気がします。
結局はみんな自分が一番大事。それぞれ自分の人生を生きている。うまく言葉として表現することが難しいと感じていますが、人、自分以外の他人がいる社会の中で生きるにあたって、世の中には理不尽なこと道理にかなわないことがたくさんある。
私にもこの上司と一緒に働きたいと思う人が何人かいましたが、その人たちは、その上の上司が変わっていくことの流れを受け、その人たちが望まない異動をした人もいました。
また、明確に素晴らしいと下からは見えても、上が変わることで一線を外れる人もいました。上の人も認める位仕事はできるし、部下からも慕われている。だから一線を外れたのだということが今はわかります。
その理不尽な状況に一喜一憂したり、こころを痛めても仕方がないと感じます。そして本来その人自身が持つ良さや多様性を活かすことにリーダーシップが発揮される。少なくとも自分は生きるうえでその視点を持っていたいと感じます。
(⑤につづく)