理解に苦しむ①の続きです
「上司」、「仕事を積極的には教えない指導者」いずれも、仕事を覚えるフェイズの人が「頑張っていて、よくやっている」という評価です。
私も「頑張っている」と思います。ですが、「頑張っている」ことと「企画書」の構成だけでも「?」中身も「?」、そのレベルで、よくやっているなのでしょうか。
「仕事を覚えるフェイズの人」は一生懸命やっている。それは事実。ですが、中身がわからない上に、そのレベルの企画書を企画書として容認している「上司」と「仕事を積極的に教えない指導者」は一体何をどう考えているのだろう。理解に苦しみます。
「上司」、「積極的に仕事を教えない指導者」、「仕事を覚えるフェイズの人」も「企画書」の要件がわかっていない。つまり要件に基づき「企画」としての検証ができていない、絵にかいた餅もしくはあったらいいなをあらわしてみただけということです。
シンプルに考えれば、「上司」も「積極的に仕事を教えない指導者」もその企画がそれで「良い」と判断しているのだと思います。つまり、その二人の判断基準をクリアしている。それか実質「見ていない」もしくは「その仕事を理解していない」いずれかでしょう。
書いていてもこの状態は「情けない」と感じます。「二流」、いや「二流半」だと思います。
私がいなくなった後も、状態は同じ。彼らは私が「問題」だとおもうところを「問題」として認識していないのですから。
あのままそこに身を置いていても調和することはなかった。
私は「手放す」「理解しようとしても難しいことがある」自分の手が届かないことに対して、明確な「線を引く」ことを学ぶ機会になのだと思います。
その「企画」がどの方向に進むか、私には手放した時点で関心はありません。ただ、過去にその仕事に携わっていた人間としては、その「企画」が理にかなったものであってほしい。とは思います。
私がその書類を見ないでいられることは自身の成長だと感じています。この調子で明確な線を引き、ラインオーバーをされないようにします。