今を大切に生きる

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囚われが終わった①


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 「返報性の原理」とは、施されたら施したくなる。施されたら、施さなければならないと考える。荒くいうとそんな心理の原理です。

 

 「終わった」と思ったことがありました。

 

 私のことを「可愛さ余って憎さ100倍」と思っていた(と私が感じている人)、手のひらを返された人が話しかけてきました。細かい話は、増えますが、ここ数年定例であったことから声をかけられました。

 

  名指しで個人的な内容で声をかけられた、という点では、1年近くぶりです。声を掛けられた後、ふと、この人は一体どういう気持ちで声をかけてきたのだろう。一定のメンバーに対して同じようにしてきたことに私だけ声をかけないのはおかしいと思った義務感なのか。それとも、本当にそう思ったのか。何か感じることがあって私と話すきっかけをつくろうとしたのか。

 

 予想もしていなかったので、びっくりしました。そのびっくりは、嬉しい気持ちと手のひらを返したくせに、何をいまさらという気持ちです。そして意外でした。

 

 相手の気持ちを思うに、声をかけてくるということは、既に私に対してこだわりはないのかもしれない。話すきっかけをつくったのかもしれない。

 

 相手は「あなた(私)のことを思って」と傷つける言葉をいってきました。変わらず(本人的に良い意味で)私のことを思って行ってきたのか、他の人と差をつけまいとおもったのか。色々考えられるけれど、どれが正解かわかりません。

 

 もっというと、どれが正解であっても、かまわない。私は、自分が相手に侵食されないように、自分に都合が良いように受け取る。そして影響を受けない。

 

 そして、声をかけられてしまったので、私も相手にとって同じ時に声を変えなければいけないと感じました。

 

 返報性の原理が働き、私も声を掛けなければいけないと思うのですが、声をかける気持ちになりません。私の中でその相手への信頼はすでになくなっています。ベースとなる気持ちがないと、声をかけようとも思わないのです。

 

 自分は変わったなと本当に思いました。以前であれば、相手がどう思うか、相手が不快にならないように、相手から虐めら得れないように等、相手から見て自分にデメリットがない方法を考えて行動を考えたと思います。

 

 しかし今は、相手がどう思おうと、私は声をかけたいと思わないのだからかけない。頭で考える以前にすでに態度は決まっていました。(②につづく)


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