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囚われが終わった②


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 囚われが終わった①では、手のひらを返された人に声を掛けられびっくりしたこと、意外だったことを書きました。

 

 声をかけられたことへの返報性の原理もあり、私も声を掛けなければいけないかと思った。だけど、声をかける気持ちがなく、腹では声をかけないとおさまっていたことを書きました。

pleasantbreeze.hatenablog.com

 

 定例に従い、今度は私が声をかける番がまわってきました。声を掛けるか掛けないか悩む以前に、私の中では声をかける気持ちがまったくありませんでしたので意識もしていませんでした。

 

 そうしたら、ばったりと顔を合わせてしまいました。

 

 数秒考えて私は声をかけていました。そうしたら相手は苦笑いしていました。その顔は照れ笑いではなく、苦笑いに見えました。この笑いは何をあらわしているのだろう。

 

 もしかしたら、私が掛けた言葉以上のことを期待していたのに、それが叶わなくての苦笑いだったのか(相手と私にはもっと深い絆があるから、自分が望む形でリターンがあると思っていたがそうではなかったのか)。お付き合いで言われたと思ったのか。こんな場所で声をかけられたら罰が悪いと思ったのか。あなたのためを思ってき言ったのに、自分の思いが伝わってないと感じ、切なく思ったのか。相手の気持ちは分かりません。

 

 相手に対して思うことは、相手に対して思っている自分の気持ちがフィルターとなります。私の中ではもう関係を保とうという気持ちがありません。

 

 そうなるとどの見方も強弱なく見え、どれもそうかもねという感じ。そうであっても、なくても私に影響ない。あらそうで終わり。反芻することも、思い出すこともありません。その後の自分の反応があまりにあっさりしていることに気づきを得ました。

 

 私は声をかけるつもりはなかったけど、目の前で顔を合わせた。自然と言葉が出ました。人としての礼儀かもしれない。顔を合わせてまで相手に対して無視するほどの執着もない。言った方が自分が楽になる。

 

 私は声をかけ終わった後「終わった」と感じました。これが、「この人間関係が終わった」なのか「言われた言葉に対して、返したことが終わったなのか」おそらくどっちもだと思います。そう、声を掛けたことは、その人に対して囚われていたことが終わったことを認識することに繋がったのです

 

軽やかに前に進みます。


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