電車の車内でバギーで祖母らしき年齢の女性2人と子供を連れている2人計4人と乗り合わせたときの話です。
その日いつもと異なる場所に行く用事があり、普段乗らない電車に乗りました。電車はガラガラに空いていました。
8人くらい掛けれる座席の左から3番目に座ったところ、祖母らしき年齢の女性1人と子供が座席に座りました。私は反射的に間隔をあけるために左から4つ目の席に移動しました。
そうしたら私の隣にいた祖母風の人が私が座っていた3番目に移動してきてまた隣になりました。そして私はその座席の右端に移動しました。
私が異動した理由、空いている車内でわざわざ近くに座ることもないというのもありますが、祖母らしき年齢の女性2人と子供を連れている2人が座りたいのかもと気を遣ったのもあります。
私が席を動いたのには無反応。祖母らしき年齢の女性2人は大きな声で話に夢中。離れて座っていても声が大きいと感じました。
そんな2人に席を譲ったことへの配慮を感じようとした私。まだまだだと感じました。
先日バギーで子供を連れている3人家族がバスに乗ってきました。そのバスには、キャリーケースを持っている人も多く乗車していました。
バス中でもバギーを置きやすい場所にキャリーケースを持ち立つ人がいました。奥さんの方はその人を邪魔そうに見ていました。
席に座っている人が奥さんに「座りますか?」と自ら席を立ち譲ろうとしたところ、奥さんは比較的愛想なく「大丈夫です」と答えていました。その後、2人掛けの席が開くとバギーの赤ちゃんを抱き上げ、旦那さんに「座る」みたいなことをこちらも比較的愛想なく旦那さんに言い座席に行きました。
旦那さんはバギーを持ったまま、は混んだ車内で人が乗降するたびに、とおりやすいように動かしていました。
誰が悪いのではないけれど、なんとなく席を譲った女性が嫌な思いをしていないと良いなと感じました。
2対6対2の法則にもあるように、何をやっても自分を好きでいる人が2割、中庸な人が6割、嫌いな人が2割いるものです。
今回の話は嫌われたとかいう話ではありませんが、2対6対2の法則が当てはまるなら、見知らぬ人の行為を受け取る人が2割、中庸な人が2割、受け取らない人が2割という感じかもしれません。
人という字は一本の棒が真ん中に倒れて支え合っています。
ほんの少しの優しさや気遣いが潤滑油となる事はよくあることかもしれません。
ですが、忘れてはならないのは、そのほんの少しの優しさや気遣いは当たり前ではないということ。見ず知らずの人が見ず知らずの人を気遣ってくれることもある。
それを当たり前だと感じる人もいる。少なくとも人に対してほんの少しの優しさと気遣いを持っていられるだけの余裕がある人間でありたいその気持ちは忘れたくないと感じました。