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置かれた場所で咲きなさい


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「置かれた場所で咲きなさい」仕事をしている間に頭に浮かびました。

 

 有名な宗教家の先生の言葉です。本にもなっています。本も読んでいないし、この言葉の正しい解釈はわかりません。

www.gentosha.co.jp

 

 本の紹介によると、どんなに辛い場所でも、置かれた場所があなたの居場所、根を深く張って生きてなさいという言葉が書かれているものもありました。

 

 若い時は、この言葉を自然に受け止めていた。今となっては愛社精神は無くなったが、就職活動中は、興味がある分野が明確で、その分野の業種はいくつかにわかれていたが、なぜか入社した業界を選んだ。その業界にもいろいろな種類があります。資料請求した会社を思い出すと、そのあたり良くわかっていませんでしたが、結果として正解だったとは思う。あまりよく調べてない割には、面接を受けた時等の人事の人たちとの会話から、他の会社にはない、自分の感性に合う会社だと感じた。なので入社できたら良いなと思ったら、採用内定が出た。

 

 他にも内定を頂いた会社はあった。そちらの会社に入ったらどんな未来があったのだろう。私の学歴からはいわゆる「一般職」での応募、「一般職」としての仕事をしたことになったとおもう。

 

 私が入社した会社も、採用も実態も人事の運用も実質は「一般職」での採用だったが、本人に希望があれば、それ以上の仕事を経験させる土壌はあった。私が経験してきた仕事は、総合職的なものが多く、好きなようにやれる部分もありました。

 

 会社で働くうえで採用活動中にやってみたいこと、経験したいことを経験する機会もありました。時には今と同じようにあまり適性のない仕事もしてきました。

 

 やりたいことだったり、その場所に自分が居たかったら、どんなにつらくても「置かれた場所で咲きなさい」と足に力を入れて踏ん張ることができたような気がする。

 

 もし今「置かれた場所で咲きなさい」と言われたら、それはフィットしない。私は「置かれた場所で泳ぎ切る。」と言う方がフィットする。

 

 この記事を読んで思うことがあった。

globe.asahi.com

 

 採用担当の時、優秀な学生が面接に来た。しかし、この方は、その学生が、この会社に入っても、自己実現ができなくてすぐに辞める相談を受けることになる。それは、会社にも本人にも良くないと、採用しない決断をしたのだそう。

 

 また、コスト削減をしている時に頑張ってやっている、成果を出している人になぜ私は評価されないのかと言われ、約束できないことは言えない。「力を貸してほしい」としか言えなかったそう。

 

 そして、以下引用です。

便所のネズミ

話は冒頭の、『置かれた場所で咲きなさい』についてだ。

なぜ私が、”置かれたところこそが、今のあなたの居場所です”などと口にすることは無責任であり、卑怯であるとまで思っているのか。

もし私が、自社では明らかに夢を叶えられないあの時の学生を採用し、その後、退職を悩み始めた彼女に対しこの言葉で説得をしようものなら、きっとぶん殴られていただろう。

転職を考えていると大粒の涙を流した社員に、「置かれた場所で咲きなさい」などと説教したら、「お前が言うな!!」と、お茶をぶっ掛けられていたかもしれない。

つまりこの言葉は、「相手の人生に対して、責任がない人」しか使ってはいけない言葉ということである。

言い換えれば、「問題の解決を、本人の意識・考え方に丸投げする言葉」と言っても良いかもしれない。

唯一、この言葉を本当に相手の心に届けられる人がいるとすれば、それは渡辺和子さんがそうであったように宗教家や学校の先生など、道徳的な指導を期待されている人に限られる。

 

なんて人情みのあるとより、責任感がある人なのだろうと思う。

 

 自分がいたい場所なら置かれた場所で咲くための努力は多いにしたら良い。しかし、その場所でどんなに頑張っても咲けないこともある。

 

 南国の樹木は北国では育てない。川魚は海では生きられない。都会暮らしが合う人、山林暮らしが合う人それぞれ適性がある。そしてその適性は生涯を通して変わることもある。


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